さくら学院の部活動というのは話の設定にすぎないのは明らかで、かなり前から準備していた筈。
今回のカドカワのコバのインタビューでそこに言及する部分があった。
こういうコバの発言って過去にもあったの?なかったの?
可憐Gの中元すず香を見て・・云々の記事はあったよ
カドカワの記事ではいきなりYUIMOAとの三角形が成立したみたいになってるけど
そこに至るまでは色々変遷はあったと書かれていた
可憐girl’s 任務完了以前に完了後の構想についてコバが言及した資料はありますか?
初期のさくら学院の全体を見るには凄く立派な年表だね。ありがとう。
でも知りたいのは細かい所なんだ。
ミニパティの初登場は2009年3月でいいのかな?
衣装を決めて作るだけでも結構時間かかるだろうから企画されたのは2008年だね。
一方、可憐Gの任務完了は最初から決まっていて、任務完了直後にすぅのためにドキモを作り始めている。
作曲家に依頼したり、そのための予算を組んだりする必要があるから、
可憐G任務完了後のすぅを中心としたユニットの企画も2008年に出てきたのだろう。
そこら辺のことに興味あるんだ。
ミニパティは「ららら農業プロジェクト」の一環として結成されたと言われていますけど、
このプロジェクトについてのプレスリリースは、2009年一月にありました。
小林啓氏が登場しました。
サンプラザ中野くんWATCHING アミューズ VOL.8 後編
「3日で辞めようと思った」にも係らず、同期でただ一人だけアミューズに残ることになったという第2マネジメント部第2制作室長の小林啓さん。前半は学生時代のバンドの話に始まり、入社してすぐに芸能戦線真っただ中のテレビの番組ブッキングを任された話で盛り上がりました。後半ではサンプラザ中野くんを担当してからの仕事の話から趣味の話まで話題が広がり、対談は爆笑の渦に包まれました。サンプラザ中野くんとの出会い
音楽班での仕事の後、インディーズレーベルの立ち上げを経て、バラエティ班に異動になりました。そこで初めて中野さんを担当することになったんです。中野さんは現状に満足しないで、人より2年ぐらい早く「これが来るぞ」というものに常に貪欲に取り組んでるのが印象的です。今ほど健康が話題になっていなかったころからホメオパシーも始めていたし、フラッシュアニメ『本マグロトロ太郎』もそうですよね。お声掛け頂いたとき、全部「やります」「できると思います」「喜んで!」と言っちゃうだけですよ。
その懐の広さというか、柔軟性がすごいと思います。マラソンもやりましたね。
健康本を出した時、『クリール』っていうランニング雑誌の編集長が取材に来て「中野さんは走って健康になりましたよね」って聞かれたので「いや、走ってません」と言ったら「走ってないとは何ごとだ!」と怒られて。
『ランナー』というマラソンランナーの応援歌を歌っている人がなぜ走らないんだ!というむちゃくちゃな理論でした(笑)。
「じゃ、走ります」と言って、いろいろ大会に出させてもらって。オーストラリアのゴールドコーストマラソンはフルマラソンを7時間半かかって完走しました。有森裕子さんに褒められましたよ。「中野さん、すごい!」って。
確か「普通の人は7時間半も身体を動かし続けられませんよ」って言われましたね(笑)。有森さんは疲れるから早く帰りたいと思って2時間半で走る。「3時間も走ってられないわよ!」と。
https://web.archive.org/web/20100606091712/http://ir.amuse.co.jp/interview/
https://web.archive.org/web/20100625122132/http://ir.amuse.co.jp/interview/16_2.php
などと言っていて、そのパティシエがミニパティの師匠だった(である?)柿沢安那氏です。「VEGEROCKも盛況でした」と言っているので、2010年2月以降のインタビューであり、
既にさくら学院にも関わっていたはずですが、
さくら学院の発表前のインタビューなのか別の理由なのか、さくら学院には言及が有りませんでした。
VEGEROCKも、ミニパティや音楽の内容についての言及は有りませんでした。このインタビューには可憐Girl’sについての言及も有りませんでした。
ベビメタを担当するコバメタルがいろいろ語り出す以前の、小林啓氏の公開された発言が、
このインタビューと2010年5月の前編以外に存在するかどうか、私は知りません。
BABYMETALもミニパティも2010年より前からあって、いくつかユニットをまとめてさくら学院がスタートした。
文脈を壊さずにコバの発言を要約したが、原文はカドカワを見てくれ。
この文脈で「いくつかのユニット」にBABYMETALが含まれていないという解釈はないだろう。
古参のメイトさんは聞いたことある話も多いかもしれないけど、あまりハッキリとは知られてない話もあるんじゃないかな。
2009年3月に可憐girl’s が終わったばかりの頃にすぅの次の曲としてドキモを作り始め、マッシュアップしてメタル寄りにしたとか。
以前のインタビューで初期の曲について一曲作るのに半年かかることもあったと言ってたけど、
逆に言えば2009年の秋にはドキモは今の形で完成してたことになる。
オレの想像より早かったけど、古参のメイトさん達は知ってたことなんでしょうか?
後に重音部ができて、重音部の歌として出ることになってメタルアレンジされたんじゃなかったっけ?
メタル曲じゃない形で世に出る予定なんてあったの?
コバのインタビューだと、可憐girl’s が終わったばかりの頃に、すぅの次の曲として作ってデモを録ったけど、
アイドルソングの範疇から抜け切れていなかったのでマッシュアップしてメタル曲にしたという話だよね。
2009年の夏くらいまでに重音部ができて、秋くらいにメタル曲としてのドキモが完成したってことかな?
重音部のグループ自体は2009年にはあったって話だもんね。
2009年春の段階ではメタル曲ではなかったのだろうけど、それで世に出る予定ってあったの?
1、SUを見て面白い事ができそうだと考えた
2、コンペして募った中にドキモがあったが差別化ができてなかったのでメタルアレンジした
カドカワの文脈から1→2のように読めるが
上祐君に言わせれば、
2のコンペは漠然としたストック用(新たなアイドル曲候補)だった可能性を排除できない
1と2は別個平行して進んでたのかもしれない
別のインタビューで
SUも早い段階(これがいつかわからない)でドキモの存在を知ってたと語ってる
ああめんどくせーw
「さくら学院の企画」という時と「BABYMETALの企画」という時は企画の意味がずれるよな。
BABYMETALの企画は音楽的な企画で歌うのはすぅって決まってるわけだからな。
さくら学院の企画って既に活躍しているキッズから選りすぐりを選んで中学卒業まで活動の場を与えることだもんな。
誰がやるか決まってないから1年かけてオーディションしてるんだもんな。
引用元:
http://nozomi.2ch.sc/test/read.cgi/babymetal/
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